ぼっち☆ぼち

アラフィフおひとりさまの、他愛もない長〜い独り言です。

読書その②

おひとりさま専用のカフェ(喫茶店☕)があったらいいなって、ずっと思っています。東京にはあるようですが、石川には専門店は残念ながらありません。それどころか、ひとりでゆったりできる喫茶店すらありません(私が知らないだけかもしれないけど)。いや、正式に言えば1軒だけあるのですが、少し遠いし、結構人気らしく、土曜にひとりで行くのを躊躇(遠慮)してしまうのです(ちなみに日曜は休業)。コロナ禍の時に一度行ったら、営業時間外で、それ以来足を運べていません。タイミングってなかなか難しいですね。

そんな憧れのような本がこの作品です。

おひとりさま専用カフェを巡る、お話です。ほのぼの系かと思っていたら、少し違っていました(店主が意外と毒を吐く)。でも、心が温かくなるストーリーです。

よく、第三者に愚痴や話を聞いてもらいたいなと思うことがあります。ただニコニコと相槌を打って聞いてもらうよりは、マツコ・デラックスさんのようにズバッと核心を突くトークで、自分の至らない所を伝えてほしい。この作品は、店主のそろりさんが、まさにそのタイプです。

最近の人は、皆心にゆとりがありません。いつもどこかでセカセカしながら、生き急いでいるかのように過ごしています。ゆったりと、余裕を持って過ごすことが難しいわけではないのですが、そうしている時間が勿体ないような錯覚に陥りがちです。

私は、比較的ゆったりと過ごしているような気はしますが、それでも世間のセカセカに翻弄され、疲労する事も多々あります。特に仕事では、その傾向が強いです。

今は宅配便でも日時指定できる便利な世の中になった一方、その便利さが仇となり、宅配に携わる人々が疲弊したり、減ったりしています。ヤマト運輸が、翌日配達の一部を廃止すると言ったニュースがありましたが、本当に急いで欲しい荷物なんてごく一部で、大半はそこまで急がないといけない必要性はないと思います。

このように、スピード重視で、質の低下はおざなりになっているのが今の日本です。例えば、マイナンバーカードだってそこまで急いで申請する必要があったのかな、と。段階的にしても別に良かったのでは、と思うのです。

今「あまちゃん」の再放送をみているのですが、あの頃、と言ってもほんの十数年前の話ですが、まだ世間はゆったりとしていました。携帯もガラケーで、出来るのは通話とメール程度だけだったけど、それでも当時はかなり便利になったものだと思ったものです。

それが、いつの間にかスマホが主流となり、それが様々な疲弊を生んだ気がします。通話とメールだけでも良かったものの、誰もがネットで配信やショッピング、更には心無いクレームまで簡単に出来るようになり、何だか窮屈な世の中になったような。そして、疲れた人々が増えて来たような気がします。気のせいかな。

昭和に戻りたいとは思いませんが、昭和はそのような窮屈さとは無縁で、いいことも悪いことも何でも堂々と出来ていた気がします。例えば、昭和のいじめっ子やヤンキーって、ムチャクチャ分かりやすかったじゃないですか。今のいじめっ子やヤンキーって、何か一見分かりにくいんですよね。そして分からないように、巧妙に人に危害を加える。

テレビドラマでも、喫煙シーンがダメとか、そう言う細かいクレームが出たりして、面白みのない、判で押したかのような当たり障りのない作品ばかりになってしまったし。「あまちゃん」は、近年の作品として面白いのは、昭和っぽさが所々に散りばめられているからだと思います。本当に懐かしいと思える所が随所にあるんですよ。でも時代は紛れもなく平成ですから。クドカン作品は、そのあたりの描写が上手いですね。

またまた話が大きくズレましたが、喫茶ドードーがもし近くにあったら、是非一度行って、ゆったりとした時間を過ごしたいです。そろりさんと、クセ毛の大変さを語り合いたい(笑)

私自身、そんなカフェを開けばいいんでない?と言うのも考えなくはなかったですが、コミュ障で人望がないから無理。カフェのオーナーって、コミュ力はともかく、人当たりのいい人ではないと駄目だと思います。先程なかなか行けないカフェの話をしましたが、そこのオーナーさんは、まさにそんな人なのです。適度に放っておいてくれて、話したい時には話し相手になってくれる。本人は決して話好きではないと思うけど(ベラベラ話すタイプではない)、聞き上手だし、話術はあると思います。彼女は、昔からの知人でもあるのですが、人当たりは本当に良く、嫌いな人はいないんじゃないかな。私は正反対なのですが、何故か周りにはこのタイプが多いんですよね。

そろりさんも、そこまでコミュ力がありそうではないけど、人当たりは悪くなさそう。観察力が優れていて、ズバッと核心を突くトークで、人の心をハッとさせる。それでも、最終的には癒やされる。今って、核心を突くトークってなかなか難しいけど、時にはそんなシチュエーションも必要なのでは。ノラリクラリと交わして、核心を突かないのが無難なわけでは無いのです。そう言う意味では、ちゃんと人と向き合っているな、と。

そう、ズーム配信が当たり前になって、人と直接言葉を交わさなくなったのも、スマホの弊害かもしれません。確かにコロナ禍では便利でしたし、今もその流れでテレワークの企業も多いです。遠隔地の方々とコミニケーションを図るにはいいと思います。

でも、身近な友達だったり、会社の人だったり、本来会わなくてはならない人たちとも、常に画面上でやり取りするのは、ちょっと違うと思います。人ってやはり、対面で接しないといけないと思います。人と直接接することで学ぶことは多いです。学校もそうですよね。もし、配信になったら、友達すらも作りにくくなってしまう。

今年大学を卒業した人が、「配信での授業ばかりで、リアルな友達が出来ずに卒業を迎えた」と言っていたそうです。これって悲しいですよね。ぼっちを望んでいるわけでもないのに、誰とも繫がることが出来ずに大学生活を終えてしまった。中高校の卒業生も、コロナでたくさんの楽しい思い出を作るはずが、ずっとマスク生活で、恐らく卒業アルバムはマスク姿だらけだったでしょう。

確かに、人と接しないことでストレスが緩和されたり、コミュ障やボッチやオタクだと歓迎されそうではありますが、1番人と接することで、学ぶことの多い多感な時期を過ごす時代に、それが出来なかったのは、気の毒だと思います。せめて、これからの人生で、直接人と接してコミニケーションを学んで欲しいです。

私はコミュ障だけど、家でテレワークとか絶対無理です。どちらかと言うと、会社(外)でひとりで黙々と働きたい。矛盾しているかもしれませんが、旅行や舞台鑑賞でも、大勢の中でひとり埋もれている方が安心出来ます。狭い家でひとりじっとして過ごすのはかなりストレスですし、家はリラックスする場所で、仕事をする場所ではありませんからね。メリハリがないと、仕事とプライベートが混同して、落ち着かなくなってしまいそう。幸い、働く業種がテレワーク不可なので、助かっでいます。

また話がズレましたが、孤独を埋めるのは、意外とこう言う、喫茶店なのかもしれません。人と程良い距離感で身を委ねる事で、「私は孤独ではない」と言う安心感を得られる。そう言うのも、悪くないのかな、とこの本を読んで思いました。ちなみに、続編も出ているようですので、気になる方は是非。

…さすがに3連チャンは疲れました💧